He's the DJ, I'm the Rapper

nanacent2006-05-29


最近ドイツで行われたインタビューでジェフが話していたが、今年は実にDJ Jazzy Jeff & The Fresh Princeのデビュー20周年にあたる。
最初のシングル、"Girls Ain't Nothing But Trouble"が地元のマイナーレーベルよりリリースされたのが1986年のことで、グループの結成から1年も経たぬうちの出来事だった。
そのラッキーボーイともいえる相棒を見つけた正確な月日を、ジェフははっきりとは覚えていないという。
だが、1985年のどこかにあった一夜が彼のその後の人生を決定付けた。
ということでウィル・スミスの音楽キャリアにおける最重要人物、ジャジー・ジェフのおそらく日本で一番くわしいと思われるプロフィールを以下に書いちゃおっと。


ジェフリー・アレン・タウンズが生まれたのは1965年のフィラデルフィア
多くのストリートキッズと同様、楽譜は読めず、高価な楽器も持っていなかったが、カウント・ベイシーのMCをしていたという父親や、R&Bを聞く年上の兄姉たちの影響もあり、子供の頃から様々な音楽に囲まれて育った。
やがて幼心にも、即興でアレンジを加えて場を盛り上げるDJの技に、ジャズを聴くときと同じ興奮を覚えたという。
父親を癌で亡くした10歳の頃に自らも音楽を始め、12歳の頃には地元の最年少のDJとして舞台に立っていた。
これは1979年にシュガーヒル・ギャングの"Rapper's Delight"がラップ音楽として初めてラジオ放送に乗る以前のことで、時代はヒップホップの創生期を待っていた。
ジェフはDJネームを"Mixmaster Jeff"にするつもりだったが、Tシャツに一文字25セントで名前をプリントする段階になって、"Mixmaster"では出費が高くつくことに気づき、Tシャツ屋に薦められるまま"Jazzy Jeff"という安あがりな名前を選んだ。


12歳のジェフは自らを茶化して"the bathroom DJ"と呼んでいたそうだ。
最年少だったジェフがターンテーブルの前に立てるのは、他のDJたちがbathroom(トイレ)に行く間だけだったからだが、8年後にはそれも笑い話となり、ジェフは地元で1,2を争うDJとして誰もが認めるスキルを身につけていた。1985年、彼は20歳になっていた。
ジェフがスクラッチを始めた当時は、クラブはDJ達の独壇場でラッパーはほとんど存在しなかったが、その様相も8年のうちに大きく変わり、街のどのDJもラッパーとチームを組んでプレイするのが主流となっていた。


その日、ジェフは週末ごとに行われるハウスパーティのひとつに出演。いつものように円盤を回すはずだったが、どういうわけか連れのラッパーが姿を現さなかった。
急きょ代理役を探すことになったジェフのもとへやって来たのは、そのクラブの近くに住む16,7歳の高校生だった。
"Hey wassup, mind if I grab the mike?"
軽いノリで現れたピンチヒッターは地元のパーティで人気を博す明るい青年で、ジェフも数ヶ月前にライヴを目にしたことがあった。
二人は即席チームを組み、ステージへあがった。
DJジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンスの最初のパフォーマンスが行われた夜である。


ウィラード・クリストファー・スミス・ジュニア。
「このトチ狂った奴を見つけるまでに、2000人ものラッパーとタッグを組んだ」
と、のちにジェフは語っている。
その瞬間、自分でも理解できないようなケミストリーが二人の間に働いた。
「どうやってコイツは俺がこのレコードをかけることを知ったんだ?どうして俺はコイツの殺し文句が4行目に来ることを知ったんだ?」
そして何よりも、互いが互いの知る限り、最大級の「バカ」だった。
その楽しさが決め手だった、という。
ジェフはかつてのパートナーが戻ったあとも、その夜のチームプレイが忘れられず、まもなくウィラード・スミスと本格的な活動を始めるようになる。
彼を加えた3人で数回ステージに立ったあと、「力量の差が歴然としていたので」とジェフは説明するが、以前のパートナーは自ら身を引く形で姿を消した。


プリンスの愛称で親しまれる新しい相棒は、性格のおとなしいジェフに比べて、非常に社交的、活動的、行動的だった。
二人が作った"Girls Ain't Nothing But Trouble"が世に出ることになったのも、若い相棒が積極的にアプローチをした地元のプロデューサーのうちの一人がGOサインを出したことに起因する。
リリースが決まるまで、ジェフの方は自分のテープがレコード関係者の手にあることすら知らなかった。


それから20年である。
JJFPは解散していない。
それが二人の変わらぬ主張だが、グループ名義のアルバムが最後に発表されたのは1993年、今から13年も前のことになる。
フレッシュ・プリンスはいまやウィル・スミスというハリウッドスターの名でよりよく世界に知られるようになり、かつてジェフ・タウンズという若者とデュオを組んでいた歴史はその陰に隠れつつある。
現在に至るまでのジャジー・ジェフの功績は音楽業界においても大きな評価を受けているが、一般の目には地味に映るかもしれない。
ごく最近リリースされたファレルの新曲、"Number 1"の中では、カニエ・ウェスト
Now we Fresh as a Prince while they Jazzy Jeff
と、スポットライトの中にないジェフを揶揄するようなライムをしている。
この曲を聞く年若い世代に馴染みがないとしても、JJFPが商業ラップとディスされながら、ヒップホップの先駆者として大きな役割を果たしたのは否定できない事実だ。
だが、その事実もまた、ただ過去の物語として終わるのであれば退屈な事実である。


つまるところ、ファンは待っている。
JJFPの復活は、これまでもずっと手が届きそうなところにありながら、決して実現を見ないフラストレーションの源泉だった。
それを難関にしているのはいつでもあの男、フィリーからカリフォルニアに飛ぶ道程のどこかで混乱し、エイリアンやロボットと戦うのが自分の使命だと思いこんだらしい、かつての高校生。だが、ファンにとっての本年度唯一の希望は、冒頭に紹介したインタビューの中でジェフが珍しくウィル・スミスにハッパをかけ、新築のレコーディングスタジオに出頭するようゲキを飛ばしていたことである。
元来が職人気質のジェフは上記に挙げたような「スポットライトのあたらない」ポジションなんかは全く気にしていない。それどころかウィル・スミスがコロムビア・レコードと大型契約をとりつけたときに、自分の納得のいく音作りができない、とインディーズに残ることを選んだのはジェフ自身である。「金に興味がないと言いながら、本当に金に興味がない希少な人間」とはウィル・スミスの言だが、感心してないでさっさと目を覚ませ!とはワタシの言である。


「ウィルは相変わらず忙しいけど、1時間や2時間スタジオに来るだけじゃだめだ。1週間か2週間は欲しい。"He's the DJ, I'm the Rapper"を二人でレコーディングしたときのような古き良きバイブを取り戻したい。僕たちはあのアルバムを2週間で書いた。ママの地下室でね。僕は最近引っ越して今は自分の地下室にでかいスタジオがある。そこに来てほしい。あのときの僕たちにあったような空気を作り出す努力をしてほしい。ウィルと僕だけで。他には誰も入れず。もう一度1986年がやってきたような振りを二人でしたい」

熱い…
ホモかと思うほど熱い!
しまいには興奮しすぎて「周りにイエスマンばっかり引き連れてるから10年来くだらない音楽しか作れないんだよ、いいから俺にやらせろ!なんとかしてやるから!」と喧嘩まで売る始末だったが…いい友達じゃん!!ほんまにもう〜〜〜たのんまっせウィル・スミス。感動ドラマなんかやってる場合か。攻撃的になれ、攻撃的に。