No Robots, No Aliens and No Safety Net

nanacent2006-11-05


NEW YORK TIMESにウィル・スミスの新作"PURSUIT OF HAPPYNESS"(邦題「幸せのちから」)に関するインタビューが掲載された。
以下、その概略。
クリス・ガードナーのプロフィール、及び映画の内容に関する記述の一部はネタバレ防止のため省略した。)

ホームレス?ウィル・スミスの冗談か?金持ちで有名人、ハンサムで、20年近くも人々に愛され、まだ40歳にもなっていない男。彼を見れば誰でも顔をほころばせて、こう言わずにはいられない。「おい、ウィル・スミスだ。こいつはいいことがありそうだぞ」

次回作"I AM LEGEND"の撮影のため、マンハッタンに滞在している彼は細身の筋肉質の体をブラックシャツとブルージーンズに包み、その姿はテレビのフレッシュ・プリンスシリーズをやっていた頃とほとんど変わらないように見える。

映画スターとしてのスミスは善なるヒーローの役回りで観客を惹きつけてきた。ある時はロボットと戦う警官として、ある時はエイリアンと戦うエージェントとして、またある時は「実にでかい」エイリアンと戦うパイロットとして。

だが、人間ドラマ「幸せのちから」の中で彼が演じるのはサンフランシスコの路上ホームレスの男である。そこで描かれる実在の人物、クリス・ガードナーが証券業界で成功するまでに味わった失意の日々は、ウィル・スミスには知りえることのないものだろう。

これまでのスターダムを脱ぎ捨て、他人の皮をかぶるような役には成功の保証がない。ハリソン・フォードブルース・ウィリスもそれをいやがった。苦痛に満ちたプロセスになりえるからだ、あるいはスミスの表現するように「恐ろしい」ものに。

「誰かの人生を脚色して、それを2時間の枠内でやるのはすごく恐ろしい。しかも本人が現場にいる中では。最初の段階では『これはできない。無理だ』と言う。それから物語に取り込まれ、『やるしかない』と。そして本人に会う。そこで明らかになるのは、いかにやっかいな難題に取り掛かったかということだ。誰かの人生だ。僕が完璧主義者であることに加え、完全なアイデアを不完全な技術で撮影しようとする試みはー、それははらわたのよじれるような課業になる」

ゴールへ到達するため、スミスは25ポンド減量し、髪を伸ばして眼鏡をかけた。だが困難は外見よりも内側にあった。彼は多くの習性や小技を捨てなければならなかった。異常なまでの下準備も、秩序だったリスト(最初のテイク、怒り、二度目のテイク、失意)を作ろうとする傾向も。
レンズを通して監督のガブリエル・ムッチーノはスミスにうわべの技を捨て、深みへ向かうよう命じた。

「見せかけだ」とムッチーノは抗議した、とスミスは言う。
「私のカメラに見せかけは使うな。私のことは騙せない。君は傷ついたような表情を作っている。しばらく時間をとってもらう。戻ってきた時には見せかけではなく、傷つけ」

そういったやりとりから数ヶ月が過ぎ、今スミスは慎重に腕を組んで言う。
「演技とは概して屈辱的なものだ。だが誰かにそんな風に見られたときには、屈辱的以上だ。」

この数年間、スミスは自らが狙いを定めた他のすべてのゴールを手にしながら、「芸術家として軌道にのろうとあがいた」と言う。それを成し遂げることがどんなに困難かは想像の域を出る。ムービースターであるウィル・スミスが圧倒的な現実として存在し、どんなときでも彼につきまとう世界では。

他のゴールとは違い、これは力仕事や、伝説に名高い彼の魅力によってたやすく得られるものではないとスミスは思った。2001年の「アリ」ではスミスは苦労して自分の体をモハメド・アリに作り変え、魂を監督のマイケル・マンに捧げた。その演技で彼はオスカーの主演男優賞にノミネートされたが、映画自体は大きな興奮を呼ぶものとはならず、スミスは受賞者の有力候補リストからは外された。

だが、もちろんスターのペルソナイメージは彼のもとに残った。ガードナーはある時スミスを予告なしに夜の貧民窟へ連れ出し、ホームレスや売春婦、ドラッグ常習者がうろつく中を歩いて、彼を震え上がらせようとした。ガードナーはスミスに怖いかと尋ねたが、彼は認めたがらなかった。

「僕は言ったんだ。僕はウィル・スミスだ、人々に愛されてるって」スミスは回想する。ガードナーは感心しなかった。「こう想像しろ。君はウィル・スミスじゃない。君はここで眠る。自分の息子と一緒に」

ジェームズ・ラシター、スミスの友人で20年来のビジネスパートナーである彼は、スミスが同世代の中でもっとも尊敬を集める俳優達のランクへ仲間入りしようと努める中で、深みを増し、成熟してきたと見ている。

「ウィルはいつだって人々に愛されたがるやつで、そのための努力をしている」とラシターは言った。
「そういったことは努力で得られるものではないのだと、彼は理解しはじめているんじゃないかな。自然に起こることだと」

その願いをかなえる方法のひとつが、アメリカでは無名のイタリア映画監督ムッチーノの手に自らを委ねることにあった。
「チャンスをつかむことでしか、次のレベルへは進めない」とラシターは言った。
「かつては安全策の方が筋が通っているように思えた。だけど今のウィルにはこう言えるほどの自信がある。『この監督の情熱に共感してる。この方法で進みたい』と」

ムッチーノに刺激されて、スミスはセットの外と中で自らを制御する術を棄て去ろうとした。
「自分を騙したい、スリップしたい、それは奇妙な、一種の一時的狂気ともいえる。くしゃみにも似てる。来るぞ、来るぞと予感し、実際に来た時には制御を失い、目を瞑り、心臓がとまる」
「僕が捜していたものに類似している。自分が本当にアリだと、あるいはクリス・ガードナーだと信じる瞬間。すべてのテイクでそこへ到達しようとするんだ」

彼はモザンビークでアリを撮影しているとき、何度かその感覚にとらわれた。「幸せのちから」では、その瞬間はより頻繁に、より静かに訪れた。
ガードナーがオークランドの駅舎へスミスを連れていったときもそうだった。ガードナーが息子と何度も寝泊りしたトイレにスミスは一人で残り、5分後に出てきたときには「同じ人間じゃなかった」とガードナーは回想した。「ゴーストが彼の体に乗り移ったかのようだった」

その場面は後にセットで撮影された。「あれは演技のニルヴァーナだ」とスミスは言った。「演技はしていない。その瞬間にスリップしている。僕は"そこ"にいた」

ガードナーとスミスの育ちには共通点があまりない。ファンならご存知の通り、スミスは両親の揃った中流家庭に育ったが(*訳注:いや、ファンならご存知の通り、ご両親は離婚されてますが)、ガードナーは大人になるまで父親を知らず、里親や親戚の家で育ち、母親の再婚したアル中の男に暴力を振るわれた経験がある。

義父はガードナーを役立たずと呼んで貶めることに格別の喜びを感じていたが、ガードナーの人生は義父の言葉が間違っていたことを証明するものとなった。また彼は、義父のようにも、また彼を捨てた実の父のようにもなるまいと努めた。

ガードナーとスミスに共通しているのは、オプティミズムと、成功を目指して突き進まずにはいられない、生まれ持っての気質である。
ガードナーがどんな犠牲を払ってでも息子を手放すまいとしたその決意を、スミスは完璧に理解する。

「僕はそれがすごく分かる。僕自身がそうだ。自分にできる限り、ベストを尽くさずにはいられない。勝ち取れる可能性のあるすべてを勝ち取らずにはいられない。関係を持つことになったすべての人間に一人残らず尽くす義務があるように感じる。僕の人生で知り合った人全員にそうする義務がある。神のお召しだ。あるいはアラーかエホバか。理由を知る必要すらない」

アメリカの美点は僕らが現実的でないところだ。すべては可能だという考え。その考えはこの地で生き続けている。この物語はなぜアメリカが機能してきたかを語る。ひとつの考えとして。その考えとは、ここがクリス・ガードナーを可能にする世界で唯一の国だということだ。『追究』がアメリカを偉大なものにしている」

そこでウィル・スミスは驚くべきことをやった。独立宣言書の第一節を丸ごと暗誦したのだ。"PURSUIT OF HAPPINESS(幸福の追求)"の部分を含み、火のような速さで。
暗誦を終えると彼は言った。「僕は信じてる」 少し間を空け、「成功しているとは思わないけど」 それから彼はガードナーと一緒に貧民窟を歩いた時間を回想した。

「僕らはただあそこに立っていた、夢の敗れたあの場所に。極度の貧困。そこで僕に押し寄せてきたのは、究極の貧困はアイデアの貧困だという考えだった。クリス・ガードナーは他の人々と変わらず貧しかったけど、彼は決してアイデアを不足させなかった。信条に富み、信念に富んでいた」
彼は笑った。あの明るい、「ウィル・スミスだ、こいつはいいことがありそうだぞ」と思わせる笑顔で。
「僕はいつだってそんな風に感じてきた」